私が教える側になって思うこと.

私は大学でティーチングアシスタントをやっている.

プログラミングの授業で,それなりに話を聞いていればわかるだろうものが課題である.

よく丸投げの質問をしてくる生徒は論理構築ができていないと一言で表せるが

もう少し観察してみると共通点が2つほど見えてきた.

まず問題を読まない.

問題はどこで,条件が何かということを判明させないのに

問題を解決させることは不可能だ.

このことに関してよく書かれているものとしてG.ポリアの「いかにして問題を解くか」がある.

書評に関してはamazonであったり,他のアルファブロガーも存在するので省略する.

問題はどこか,条件は何か,自らが持っている使えそうな知識は何かということを明確化することは

自分が旅行に行くときにどこに行きたいか,どのようにしていくか,

その時にどのようなツールを用いるかということを考えることと同じである.

2つめの共通点は手を動かさないということだ.

数学においてもわからない場合は簡単な場合を書き出してみたり,グラフなどを書いてみるということは理解を助けるので小学生,中学生でよく行われている.(そういう意味では中学生,高校生などからexistやfor allなどの数学表記に触れておくことは大学からの数学へのアレルギー症状を緩和させるのではないかと思う.それが実現されるのは難しいかもしれないが.)

しかし,高校生や大学生になると途端に考え込んで何も書かなくなる.

まっさらな紙を見ていても何も生み出されない.紙に思考のあがきを残すことでわからなかったものが
わかる可能性がある.紙に書くことで頭が色々と考え出す.

これは何もプログラミングだけではない.数学でもそうだし,研究においてもそうだ.

直感的に問題を解決できる人はごくごく限られている(と言ってもその解決したことはその他の人に説明するときに論理が必要になる.)

まず,論理的だどうこうという前に毛嫌いすることなく問題を読み,思考を残してみてほしいと思う.

屁理屈をこねるというが,論理も同様にこねるものだ.

1つ1つしっかりと力を入れていくことできれいな答えを得ることができる.

育てる側の人間は興味を持っていないからだどうこうという前にまず目の前で楽しくやってみる.

そして同じようなものに対してやり方を教え,やってもらう.

自然と興味を持つ人が必ずでてくる.

教育では受験のテクニックではなく,様々な物事に対して使える知恵を育てていくことが

今後の国として提供しなければならない教育なのではないだろうか.

様々なものに使える